幻影が紡ぐ現実の世界で



名前を呼ぶ声で目が覚めた。
覚めた、といっても目を閉じていただけで本当に眠っていたわけではないが。
顔を歪めた天才執行人が目の前に立っていた。

「動けないのなら置いて行く」

非情に告げられた現実。
自分で目を背けていた事実。
分かる範囲でだが、肋骨2,3本、左手の薬指が折れている。
あと、きっと内臓もどこかがイかれてるに違いない。

「待ってください!日向裁判官は自分をかばって…!」

右腕にかすり傷を負った少年が叫んだ。
そんな言い訳をしたところで、怪我をしたのは自分なのだから、この執行人の意見は変わらないだろう。
勝手に少年に情けをかけたのは自分なのだから、その責は自分で負わねばならない。
ありがとうと、心の中でつぶやいて少年の背中を思い切り押した。
少年は驚きの目を向け、自分のために涙を流した。
その少年の非難の声は途中で途切れ、壁に貼られた一般の人間にとっては奇怪な入り口へと消えて行った。
入り口前に残るは俺と、天才執行人と、その助手だけ。

「ムヒョ…」

「先に行け」

「…必ず来てよ」

助手はそれだけ言うと、少年が入った入り口に同じく消えて行った。
…最後に俺に頭を下げながら。
それがまるで最後の別れだとでも言いたげな表情だった。
助手はどこまでも心優しい人間だから、彼に嘘をつくことが躊躇われた時期もあった。

「行けよ、ムヒョ…皆が待ってる」

「…」

「戦場に情けは無用、だろ。お前自ら言ったじゃないか」

俺が泣き出す前に、早く行ってくれと、暗にそう言った。
頭のいい人間だから、きっと気づいたはずだ。
だから、早く、連れて行けと言い出す前に、切り捨ててくれ。

ムヒョはおもむろに俺のタイを引き寄せて口付けた。
いや、そんな軽いものではなく、獣のような荒々しい口付けだったが。
舌が、口内を蹂躙する。
それは秘密めいた二人の関係を物語っているようで、自分の顔が歪むのが分かった。
口を離したら、どちらも荒い息をしていた。
戦の興奮と、性への興奮とが混ざり合う。
だめだ、お願いだ、止めてくれ。
思いが止められない、付いていきたいと願ってしまう。
今ここで冒してくれと、殺めてくれと、懇願してしまう。

「ム、ヒョ…」

「誓いを立てる」

ムヒョは荒い息のまま俺の左手を取った。

「ここは俺だけのためにとっておけ。必ずここに物を納めるからな」

キス、というよりも舐める、という表現のほうが正しいだろう。
折れた薬指に丹念に唇と下を這わせた。
それだけで痛みが分からなくなるのだから、俺は相当盲目的な思いを寄せているのだろう。

「だったら無傷で帰ってきてみせろ。そしたらこの指くれてやる」

「簡単なことだな」

ヒヒと、彼特有の笑い声を残して、少年や助手の入った入り口に、同じように消えていった。
俺に出来ることは、自らの傷を癒すこと。
一緒に戦うことは出来ないけれど、貴方を待つことなら出来る。

「武運を…」

一つ零して意識が途切れた。
死にはしない、ただ少し休むだけだ。
目が覚めたころには戻ってきているといい。
今はただ、いるはずも無い都合のいい神に祈ることしか出来ない。





 


お題は「群青三メートル手前」様からお借りしました。
2008.02.14

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